HISTORY of ORIGINAL ALBUM

10th ALBUM
2021.05.12 Release
 ついにここまで来たか、というアルバムだ。

 『あなたになりたかった』という初めての日本語タイトルが来て、焚かれたフラッシュに目をくらませる平井堅が映る。ただごとではない。一曲目「ノンフィクション」から「人生は苦痛ですか?成功が全てですか?僕はあなたにあなたにただ会いたいだけ」と歌われる。本作は、彼のキャリアの中でも特に内面的な狂気が強くにじみ出た作品だ。サウンドは極めてミニマルで、無駄な装飾を排除している。静かなトラックの上に今にも泣き出しそうな声がむき出しの感情を帯びながら響き、その揺らぎや息遣いが、楽曲そのものの緊張感を強調している。表題曲「あなたになりたかった」に象徴されるように、このアルバムでは「他者になりたい」という危うい欲望が繰り返しテーマになっており、そこに滲む自己否定や憧れ、絶望が、聴く者の心をえぐる。

 アルバム全体としては音数をさらに減らした一方で、ところどころダンスミュージック的な曲が挟まれているのもポイントだろう。ケンモチヒデフミが“らしさ”を存分に出した「1995」や、seihoが思う存分料理した「鬼になりました」がそれに当たるが、沈黙と爆発、孤独と享楽といった対立する感情が交錯していくさまは実に面白い。というか、そういった不安定さこそが、本作をアンビバレンスの爆発という混乱へ向かわせている。

 「怪物さん feat.あいみょん」でも、冒頭であいみょんが「私をそこらの女と同じ様に扱ってよ」と歌ったと思いきや「私がそこらの女と何が違うか教えてよ」とつぶやき、私たちを揺さぶってくる。
終始そういった調子で、突然「ポリエステルの女」ではエフェクトのかかった声で「い・や・で・も・み・て・る・の・い・や・に・な・る・ま・で・み・て・る・の」と歌うわけだから、なかなかに恐ろしい。平井堅がさまざまな視点でさまざまな人になり、自分を客観的に眺め、時に羨み、時に絶望を感じるアルバム。むき出しだ。やはりこれまでで最も、生々しい人間らしさが露呈している作品だ。
中でも「オーソドックス」は、彼のディスコグラフィにおいても最高傑作と言える一曲だろう。「私はこの街が嫌い」と始まるこの曲は、地方の誰もが感じたことがある心情をえぐるようにリアルに描写する。「オーソドックス」が描き出すのは、単なる地方都市への鬱屈ではない。もっと深い孤独、もっと切実な「どこにも馴染めない」という感覚である。ありふれた街、ありふれた日々の中で、自分自身もまたありふれた存在でしかないという残酷な気づき。それを彼は、じわじわと抜け出せない感覚として積み重ねていく。次第に、呼吸の間によって前景化する絶望のリアリティ。『あなたになりたかった』というアルバムは、こうした繊細な絶望の蓄積によってできている。それこそが、デビューから25年が経った平井堅の成熟なのだろう。

 本作で描かれている「他者になりたい」という感情は、決して特殊なものではない。むしろ、今を生きる私たちの多くが無意識に抱えている気持ちである。自己否定と承認欲求がせめぎ合う時代に、彼は「なりたい自分」すら持たず、「なりたい誰か」を探し続ける心の空洞を露わにする。これは、平井堅というひとりのアーティストが到達した極北であると同時に、現代社会に生きる私たち全員の告白にもなっているのだ。

 この境地までたどりついたのちに、彼は一体どこへ向かうのだろうか。以降、四年間アルバムは届いていない。本作は、平井堅のワークスの極北として、今もまだアンビバレントに鳴り続けている。
Text by つやちゃん(文筆家)